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zoom RSS 夏の昼話 みひるめ

<<   作成日時 : 2014/08/09 00:53   >>

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かたつむり

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 僕は今おそらく、近所の住宅街を傘を差して歩いている。雨が降っている。こんな真っ赤な傘なんて持ってたっけ。コンクリートの塀の上に、かたつむりが這っている。僕は学校の制服を着ている。腕を見ると、半袖の袖口にも小さなかたつむりがついていた。傘に当たる雨の音がうるさい。頭の中で、無数の小人が絶え間ない拍手をしている。黙れ。やめろ。

 目が覚める。窓には大粒の雨が打ち付けられている。強い風が吹いている。外は暗い。コタツ机の上の、パソコンの電源は入りっぱなしになっている。ディスプレイは暗くなっている。僕は身を起こし、マウスに手をかける。ディスプレイに明かりが点る。パソコンをスリープ状態にする。僕ももう一度寝直す。

 眠りに落ちる直前、ふと、この先いいことは何もないような気がした。生まれた時からそんな風に教わってきた気もする。僕たちが大人になる頃には全ての物事が切羽詰っており、背負うものは過去の人たちよりも多く、一切の希望的観測は捨て去るしかない、みたいな。なんだか戦場にでもいるような気分になる。とはいえ、現在の僕は日々をたらたらと過ごしていられるわけだけれども、実際には。一体、大人になるというのはいつからなのだろう?

 朝起きるまでに、もう一度夢の中でも雨が降った。一匹で道路を埋め尽くすほどの巨大なかたつむりが僕の背中に圧し掛かりかけていた。夢から覚めて目を開けると、こちらの世界でもまだ雨は降っていた。風は少し弱まったようだ。背中には、かたつむりのぬらぬらとした軟体の感触が残っているような気がした。パソコンを起こす。タスクバーの時計を見やると、5:32。晴れていれば相当にもう明るい時間だが、ひどく重たげな雲がかかっている今日は、これから日が沈むのじゃないかと思うくらい暗い。今は本当に朝の5時なのだろうか。これは本当に夏休みの天気なのだろうか。

 二日前には登校日があった。緊急のものだ。なんでも、生徒の女の子が一人、自殺したとかで、それについての説明とか在校生のためのカウンセリングの準備があるとかなんとか、壇上の教頭先生(だったかな)は話していた。僕はその子のことを知らない。今時、自殺くらいどこにでもあるだろうと思う。わざわざ夏休み中に全校生徒を呼び出さなくてもいいのに、と思った。僕だったら、僕が死んだことでそんな大げさなことをしてほしくはない。個人の問題だろうに。まあ、ちゃんとした説明もなく、妙な噂が流れてもアレか。自殺についてのちゃんとした説明ってなんだろうな。まあ、人の勝手な噂ってのは避けようがない。いや、どうせ僕はその頃死んでいるのだからどうでもいいと言えばいいのだけど。

 結局ひそひそと囁かれる生徒たちの噂話なんかも聞いた限りでは、その女の子は、一人きりで留守番をしていたときに自殺したらしい。両親が用事を終えて帰宅すると、居間のテーブルに遺書が置かれていた。彼女は自分の部屋で、ドアノブに結んだビニール紐で首を吊っていた。それ以上のことはわからない。

 同級生の友達の住むマンションでは、若い女性の飛び降り自殺が去年あった。路上に残された血痕を撮った画像を見せてもらった。今年に入ってからは、クラスの女子のアパートで、同じ階の部屋で老人が孤立死しているのが見つかった。血が下の階の部屋に染み出してきたとか、人のいなくなった部屋から老人の唸り声がするとか、まあそれは本当かどうかわからないけれど、早く引っ越したい、とその子が話しているのを聞いたことがある。僕の家から西に500mほど行った住宅地では昔、殺人事件があった。十数年前、幼い子供を含めた一家3人が殺され、今でも未解決のままだ。

 一昨年には、他県で暮らす僕の父方の祖母が脳梗塞で倒れてそのまま亡くなった。祖父もあれから元気を失くし、少し認知症の気が出てきている。一緒に暮らすかどうか、という相談を父と母がしていた。

 それから、うちの近くの公園では、身元不明の初老の男性が亡くなった状態で発見された。少し離れた川の河川敷では、やはり身元不明の、死後2か月ほど経過した30代から50代くらいの男性の遺体が発見された。そういった人々のことを、行旅死亡人とか言うのだそうだ。

 新聞のお悔やみ欄を見れば、毎日毎日あちこちで人が亡くなっている。人の死は僕の今立っている場所と、そう遠くないところにある。というか全然近い。僕だって明日車に轢かれるかもしれないし、両親だって急な病かなんかで倒れるかもしれない。突然の死だとか、悲惨な事件なんかを、自分には起こらないことだと思っている人なんているのだろうか。よく悲惨な事件のニュースなんかでは、インタビューに答えた人が「こんなことが起こるなんて、想像もしなかった」とか、「真面目に生きてきたのになんでこんな目に遭わなければいけないのか」みたいな感想を言っていたりするけれど、あれは果たして本心からなのだろうか。誰に何が起こっても不思議じゃない。事件に遭ったり、突然命を失くしたりするのは、その人の生き方とは関係なく起こり得る。むしろ僕なんかより、大人たちの方がそういったことは経験則からも十分に知ってるはずなんじゃないだろうか。

 自分の親が今なにかの拍子に死んだとして、その葬儀の様子を想像してみる。祖母の葬儀のときに父がしたように、僕はきっと人々の前に出て、何事か挨拶をしなければならないのだろう。僕は少し緊張する。僕は参列者の前で、なんと言えばいいんだろう。

 人の死を、その最後の姿と、それから、その人が生きていた間にどんなことをしてきたのか、というようなことを、語らねばならない時が来る。順当にいけば、僕はいつか、父母についてのそれらを語ることになるのだろう。それはもしかしたら今週にも起こったって不思議じゃない。あるいは僕自身が不意に死ぬようなことがあるかもしれない。

 テレビのニュースでは、殺人事件や話題になりそうな自殺が起きる度に、そこまで公に出さないといけないのか、と思うくらいに亡くなった人の半生だとか性格だとか個人情報なんかが露わにされる。新聞のお悔やみ欄では、簡潔にその人の生前の暮らしぶりなんかが書かれている。たとえば亡くなったのがお年寄りなら、どこどこの会社に勤め、役職はどのくらいで、趣味はなになにで、家族構成はこうこうで、その人となりはこんな感じで……。簡単な例を挙げれば、生前は囲碁を嗜み、1男2女をもうけ、4人の孫に囲まれ、穏やかな人柄で知られた……みたいな。

 それに対して、官報に掲載されている行旅死亡人の説明はいっそう簡潔だ。というか、書かれていることの種類が全く異なる。たとえば、本籍・住所・氏名不詳、年齢は35歳から40歳くらい、性別は男性、身長約170cm、身体的特徴は特に無し、着衣は紺色のシャツ、青色のジーパンなど、所持品は現金563円、壊れた腕時計、タバコ一箱……○○区○○地内にあるアパートの室内において発見され、死後1ヶ月ほどが経過、など。

 そこには、亡くなった人の生前の姿、性格や仕事や家族や趣味や人間関係など、について何も書かれていない。まあ、それは広告の性格上当然のことなのだけど。本当にただ、死体として発見されたときの状態を事務的に記述したものだけだ。年齢や着衣や所持金などから、人となりについていくらかの情報はもしかしたら読み取れるかもしれない。でもそれはほとんど空想みたいなものだ。お悔やみ欄の記載と比べてみると、人間の最後の姿の記述としての差異に愕然としてしまう。なんだか、世界中の人がその人を見捨てたせいで、そうなったみたいに思えてくる。あまりにも孤独な死のように思えて、あってはならないことのような気さえする。

 行旅死亡人のそれぞれの記載の末尾には、「遺体は身元不明のため火葬に付し、遺骨を安置しています。心当たりの方は、○○市福祉事務所生活福祉課まで申し出てください」などと書かれているが、どれほどの人が、ちゃんと引き取りに来てもらえるのだろうか。もしかしたら、僕が想像しているよりは割と多いのかもしれない。そう思うと、幾分か安心する。でも、中にはおそらく、誰からも迎えに来てもらえることもなく、この官報の公告を最後に、この世からその人に関する記述が失われてしまう人が、誰からも語られることのない人が、相当数いるはずだ。そういった人のことを考えると、不安な気持ちが胸に湧く。それは僕の歩いている道の最後の光景でもあるかもしれないからだ。僕は無限に続く曇り空の日々をなぜだか思い浮かべる。

 誰かが死ぬと、世界が少し削り取られたように思う。知らない人が亡くなった時もそう思う。彼らは僕のまだ生きているこの世界から、その命と一緒に、世界の一部を抱えたままいなくなってしまう。道連れみたいに。何かを持って行ってしまう。それらは多分、新しい命によって補充されるのだろう。でも僕はまだ誕生について知らない。僕もいつか人の親になるのだろうけれど、それはまだずっと先のことだし、確実ではない。誕生は不確かだけれど、死は確実に訪れる。僕はマイナスな方向へと落ちることを約束された、ゼロの地点に立っているような気になる。

 誰かに自殺をされると、僕は置いて行かれたような、見捨てられたような気分になる。それから、加害者になったような気持ちを覚える。僕らは死んだ彼らに、「お前らが生きているこの世界には、俺はもう生きていたくない」と告げられたような気がするのだ。僕らは、彼らに「生きている価値がない」と見限られた世界に取り残される。僕は、それでもまだ続いていくこの世界で、しばらくは生きていかなければならないのに。

 かたつむりは濡れたコンクリートから、炭酸カルシウムを舐め摂っている。彼らはそれで殻を作る。かたつむりには歯舌という、人の歯に相当する、やすり状の器官がある。それで植物を削りながら食べる。

 僕も石を食べて、殻を作れたらと思う。みんなみんな、殻に包まれていればいいのにと思う。すべての人がかたつむりの殻になった情景を想像する。晴れた公園に、モニュメントみたいに渦巻の殻がいくつも静かに佇んでいる。雨が降るまで動かず、みんなじっとしている。動かなければ、その殻は生きているのか死んでいるのかわからない。死体として確認されたときの説明も、きっと簡単だろう。姿かたちはみんな同じなのだから。死後どのくらい経過、の説明だけで済む。それは全ての人に平等に行われる。

 世界はゆっくりと減っていく。ずっと後ろの方から、巨大なかたつむりが、少しずつ世界を磨り取って食べながら近づいてくる。ゆっくりと、でも、世界が広がっていく速度よりはほんの少し速く。人の死と同じように、世界の終りは確実に近づいてくる。

 僕は今、公園に来ている。傘を差して、しばらくはこれ以上激しくも穏やかにもならなさそうな雨の中を歩いてきた。夢で見た赤い傘なんかじゃなくて、いつも使っている青い傘だ。僕は四阿の長椅子に座る。身元不明の男性が、遺体で発見された場所だ。この長椅子に横たわっていたらしい。別段、その痕跡は見当たらない。

 あちこちにかたつむりが這い出てきている。彼らは普段は、晴れているときには、植え込みの陰なんかに潜んでいる。今そういった陰の中には、かたつむり達の代わりに、雨が止むのを待ち、晴れるのを窺う、目に見えない者たちが身を潜めている。彼らの正体はなんだかわからない。でもそこにいる気配がする。彼らはかたつむり達とは逆に、晴れた日が好きで陽気な連中だ。でも今はひどく陰気に見える。雨が苦手なのだろう。早く雨が上がって、陽気の中で過ごしたいと願っている。どうして雨なんか降るのだろう、空が曇ったりするのだろう、と不思議そうな顔をしている。空が灰色になるのを認められないのだ。いつも青く澄んでいなければならないと思い込んでいる。僕も、きっと。もしかしたら。

 雨の浸み込んだコンクリート。湿っぽい四阿のベンチ。濡れた靴。灰色の空。自殺した女の子。ほとんど動かないかたつむり。僕は本当に死を理解しているのだろうか? 僕は急に、世界が狭まっていくような感覚の中に陥る。行き倒れた男性は、首を吊った女の子は、本当に一人ぼっちで死んでいったのだろうか。本当は何かを、誰かを、道連れにしていったのじゃないだろうか。僕らはそれらが無くなったことに気づかないのだ。彼らが道連れにしていったもの。僕の周りで、無くなっているものはなんだろう? 何かあるはずなのだ。それとも、これから……?

 僕は眩暈を覚え、ふらつきながら、公園を出る。想像に飲み込まれているんだろうな、と自分でもわかる。でもこの眩暈にはなにか、理由がわからない部分がある。自分の想像の外にあるものが混ざり込んできて、僕の中を乱している。アスファルトの道を歩いていると、雨が僕の体を濡らしていることに気付く。髪の先から水滴が落ちる。シャツが肌に張り付いている。信じがたいことに、傘を四阿に忘れてきてしまっていた。静かな雨に、窒息しそうになる。寒い。僕は路上にうずくまる。生臭い匂いがする。僕の背後にはきっともう、巨大なかたつむりが迫っている。僕はこのまま飲み込まれる。ぬらぬらとした粘液に、冷ややかな軟体に。そしておろし金のような歯舌で、僕は少しずつ磨り取られてゆく。血が滲み出る。身動きが取れないまま、僕は少しずつ削ぎ落とされてゆく。赤い傘を差しているように思う。



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