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zoom RSS 夏の昼話 よひるめ

<<   作成日時 : 2014/08/10 03:47   >>

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かえる

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 今日もまた、蛙が死にます。

 私は今、トラクターに乗って圃場を耕しています。大きなトラクターです。後輪は私の背丈ほどもあります。重さは5トンは下らないはずです。

 作業中は、大きな音が出ます。これは、ほかの農機具に関してもそうです。また、田畑を耕せば、特に乾燥しているときは、ひどく土埃が立ちます。また、乾燥機を使っているときにも大量の埃が出てしまいます。これらは、近隣にお住いの方には、非常に迷惑なものであるとわかっております。ノイローゼ気味の若い女性に、叫ぶように文句を言われたこともあります(何と言っていたのかは聞き取れませんでした)。しかし、私はこの仕事をやらなければならないのです。

 信じていただきたいのですが、私はいくら埃を巻き立てようが騒音を出そうが、あるいは農薬や化学肥料で自然環境を汚染して(いるとすれば)いようが一向気にしない、などというわけではないのです。あるいは、それは仕事で仕方のないことなのだから誰に憚ることもない、などと思ったりすることもありません。いつも、申し訳なく思っているのです。義務を果たすために、私はそういったことに対し心の中でお詫びをしながら、仕事をしているのです。

 私は臆病な人間です。私は、私がしていることで、なにか他人様に迷惑をかけているのではないかと思うと、とてもいたたまれない気持ちになります。迷惑をかけているかもしれないという予想だけで、私は消えてしまいたくなります。

 私は一人でいることが好きです。この世界に自分が一人だけだったらどんなにいいかと思います。たった一人で、果てしない圃場を、誰の目も気にせず耕していられたら、それは自由であると思います。

 私はいくつかの組織やグループに属しています。仕事に関係するものが3つほど、地域の活動に関するものも3つほど。これらは、年をとる毎に増えてゆきます。田舎のことですので、近所付き合いや地区の行事にも折に触れて関わらなければなりません。私は、大人しい人間で通っています。最低限の社交性は身についているのではないかとも思います。そうであればいいなと思います。やらなければならないこととはいえ、やはりこれらは、私にとって軽からぬ負担です。

 私はこの大きな機械のキャビンの中にいるとき、少なからぬ安堵を得ます。この中にいる限り、私は自由であるような気さえします。厚いガラスと、それからエンジンや耕耘の音が、私を守る壁になっているように感じます。視界に人の姿が全く無い時が、心休まる時間です。

 お恥ずかしい話ですが、私は時々、ふとしたことで、人から見れば些細なことで、カッとなることがあります。多くの場合、私は、自分の怒りを抑えきれなくなります。まるで頭の中の回路がパッと変わってしまったようです。そういった時、私は、つい物に当たってしまいます。家の壁や、扉や、家具などには、いくつかのみっともない傷がついています。何かを殴ったり、汚い言葉を吐いたり(自分にしか聞こえないような声で、あるいは一人で部屋に、キャビンの中に、いる時に)してしまいます。時にはたまらずに大声を、声にならないような短い叫びや、人を罵る言葉を発してしまいます。まったく、子供っぽくて嫌になります。私は来年、もう40歳になるのです。

 けれども、自分の怒りを人はどれほどコントロールできるものでしょうか? 怒ることとは、そんなに醜悪なことなのでしょうか? 怒りを誘発させた人の方にこそ、問題があるのではないでしょうか? 子供のように、自分の利益しか考えない人だけが怒るものなのでしょうか?

 私は想像します。というよりは、妄想の域です。私は圃場を耕しながら、すぐ隣にある他人の畑へと、畦を乗り越え、踏み入れることを考えます。野菜を支柱ごと踏み潰し、ビニールハウスを突き破り、道に出て、通学路を歩いている小学生の群れを訳もなく蹂躙し、続いて家屋に突入していく様を、思い浮かべます。

 もちろん、当然のことながら、そのような蛮行に及ぶことはありません。私は決してそのような荒々しい罪を犯しません。そこまで怒りをコントロールできないわけではないのです。それに、ビニールハウスは案外丈夫で、トラクターを止めてしまうかもしれません。子供たちは素早く逃げるかもしれません。それに、私は罪を背負ったその後の自分の人生について考えないわけにはいきません。

 必要なのは罪悪感です。激しい怒りは、罪悪感によってしか鎮められないのです。それが、私がこれまでの経験から得た、ひとつの確かなことです。

 私は蛙を殺してしまいます。そうしたいからではありません。やむを得ないのです。作業中に、機械によって殺してしまうのです。草を刈るとき、薬剤を散布するとき、作物を刈り取るとき、多くの蛙を巻き込んでしまいます。非常に多くの。それはほとんど避けられません。彼らがどこかに避けてくれるのを待っていては、仕事にならないからです。

 もし彼らが、蛙たちが、私を裁くことができたのなら、私は真っ直ぐに絞首台へと歩かされることでしょう。私は彼らの、これまでに殺した何千匹かの蛙たちの、無念さを感じることができます。いつも、申し訳なく思っています。かわいそうです。そのことで人の社会に裁かれることはないとしても、私は罪深い人間だと思います。しかし、誰かがやらねばならないのです。私は地域の人々から、多くの田畑をあずかっています。農業から離れていった人たちの代わりに、彼らの分の蛙を殺しているのです。私は真面目に仕事に取り組んでいます。仕事が楽しいと思ったことはありません。やらなければならないことだから、やっているのです。

 私は、自らの腕を切ったことがあります。小型のナイフで、人の目につかない、肩に近い二の腕の部分を何度か。怒りを鎮めるためには罪悪感が必要です。しかし、罪悪感が大きすぎた場合、次はそれをおさめるための作業が必要になります。自分への罰です。ささやかなものです。いくつかの傷のうちで、長いものは10センチほどにもなりますが、それほど深くはありませんが、縫わなかったので肉が盛り上がり、今では5ミリほどの幅の、ピンク色の筋になっています。これも、やらなければならないことだったのです。

 私は、漠然と「死にたい」と思っています。今この瞬間にこの世からパッと消えていなくなれるのなら、そうしたいと思います。しかし、実際の死とは多くの場合そう簡単なものではありません。苦痛は恐怖です。死は恐怖です。胸に包丁を当てがってみたこともあります。首に紐を巻いて絞めてみたこともあります。どれも痛くて苦しくて、恐ろしくなって、最後まではできませんでした。

 今日も子供たちが、圃場の横の道を歩いてゆきます。ポケットの携帯電話が鳴りました。父からです。耳の遠くなってきた父は、もともと大きな声が最近はさらに大きくなっており、私を苛立たせます。父は何事かを私に告げます。私の気に入らないことを、私の気に入らない口調で喋っています。私は父の声を耳にするだけで、頭がカッとなります。ハンドルを握る手に力が入ります。アクセルを思い切り踏み込みたくなります。

 子供たちが、私を見て、笑ったような気がしました。家々からは、私の巻き上げる埃と大きな機械音とを責め立てる声が聞こえてくるような気がしました。私を知る人々の顔が不意に浮かび上がります。彼らは一様に、私の短所や社会に馴染まない点について、非難しています。嘲るような口調と表情とで。無論、それは錯覚です。私はまた、私がかつて引き起こした些細な出来事について、この世の人々すべてが永遠に詰り続けるような錯覚に陥ります。しかし、果たしてこれは錯覚なのでしょうか。蛙たちが私を絞首台に送ろうとしています。

 私は温厚な人間です。私は善良な人間です。でも私は、この巨大な車輪でそこにいる子供たちを踏み潰す、その感触を、想像せずにはいられないのです。


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