こころにうつりゆく

ものぐるほしけれ

青い柿ってどんな味がするのだろうと思い、色づき始めた庭の柿をもいで食べてみました。
あら、甘い。この柿の木は甘いのと渋いのと両方生って当たりハズレがあるのですが、真っ青な実を5つほど齧ってみたところ全部甘かったです。色がつき始めた実は渋かった…。

もしかして青い柿はみな渋味が無いのかも!と別な柿の木、こちらは渋柿しか生らない木に挑戦。ほとんど赤くなりかけてたけど、一個だけ青いままだったものがあったのでもぎ取って齧りついてみる。

…極渋。

やっぱ渋い木はどうしたって渋いか…。今年は干し柿つくるかな。祖母がやらなくなったらもう誰もやろうとはしないかもしれないなぁ。



ウェブリブログの管理ページが最近異常に重いです。記事の新規作成に至るまでにネオスチなら起動できてしまいそうなくらい。なんでかな…( ´・ω・`)

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RVR日記

10/3 忘れた( ・ω・)…

10/10 開始前の青1には3PTくらいしかいないように見えたので不安だったのだけど、神秘はラング城獲得。キリエンコアも一度破壊。キリエンも開いてたからか、ラングの守り固かったですね。

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ネオスチ日記

ウィンドウのタイトルバーを右クリックでメニューを出すとゲーム画面が固まりますが、タスクマネージャー見てるとこの時のCPUの使用率ががくんと落ちます。夜寝てる間などの修練放置中にはこのままにしとけばPCにやさしいのかも。それともなんか他のトコに負担かかってたりするのかな。

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90台少人数PTでロフアイルボス巡り。緊張感があって楽しかったです。消耗激しいからたまにやるくらいが丁度いいですね。

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しかしクロネス強い。最初スミス二人で特攻したら、ビストンほんとに効いてんのかと思うくらい瞬く間にHP減って怖くなって逃げた。逃げ切れず一度死ぬる。その後トマトな俺さんが加わって順調に討伐。と思いきやクロネスHP残り数%あたりで死亡。焦って復活ボタンを押して経験値を失う。いや、Lv100になりたいわけじゃないけれどこれは…やっぱり切ない。お前はなんのためにフェニエリ100個も持ってるのかと自分を責める。

続いてEDへ。ようやく灼熱の魔獣タグ取得。
ろくなSSが撮れなかったところ。リカバがまぶしい。

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これは7月にソロで挑んでみたところ。

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おお、いけるかもと思ったけれど辛くなってきたのでりばさんを召喚。頼りになるたるんだ( ・ω・)
さぁ、倒したらもう行っていいよ…( ・ω・)っシッシッ

ブロークンが昔みたいに3分続くスキルだったらもっと楽なのかも。

一口メモ:スタン入れて銃で一発撃ってからブロークン入れると、スタンの免疫切れてからブロークンの効果時間が切れるまでに1~2秒の間隔が開くので、免疫切れた直後にスタンを入れられます。よく失敗するけれど。


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うわごと

折角の休日にぐうたら寝ているのも勿体無い…でも起きているのもそれはそれで怠い…気持ちが奮い立たない…。いろいろなゲームに手を出しても30分も続けてられない…。かと思うと半日ゲームし続けたり。そうして夜中はがぶがぶと酒を飲んで深夜に気持ち悪さで目を覚まして胃液っぽいものを吐いてみたり。おお、歯が溶けてるざらざらした感じが…。

一口メモ:そういう悪い酔い方してしまった時は、牛乳で口を漱いで(飲まない)、野菜ジュースを一杯飲むとわりとすっきりするよ( ・ω・)b


あれだ、先日の記事で死とか何とか考えちまったからいけないのだ。将来のこととか今の自分とか昔の自分とかそういうネガティブ要素しかないものについて考え込むから気分がどんどん落ち込んでいくのだ。

未来に目を向けているから絶望するのならば、どこに目を向けていればよいのか?未来がダメなら今か、過去か。いや違う。過去でも現在でも未来でもない、「別の世界」に思いを馳せていればいいのだ。そこは無限の世界。To infinity and beyond!

かくして再び二次元の世界へ。いや何も、あっちの世界の女の子とあれやこれやという妄想ではなく、こっちの世界と相互に影響し合う価値観のむにゃむにゃ。決してそれぞれ独立して交流の余地がないというものでもない。こっちの世界で向こうの世界を形にして表し、そうして目に見える形となった向こうの世界がこっちの世界に干渉してくるもの。


なんてねぇ。別の世界に行っちまえるものなら行ってしまいたいものですけども、そういうわけにもゆかず。人は死んだらその後は他人の世界観とか物語の中でしか存在しなくなるというのはどうにも納得できず、かといって死んだらどうすることもできず、そんなん考えるのもきっと空しかろうとも思い。

人の体の形に黒く染みのついた畳の画像を先日見ました。人の死体の画像などネットで散々見たけれど、そういういくらリアルな画像を見たり、または人が体験した話をところで、死というものの理解に近づけたと思うのは間違いなのかもしれないですね。自分自身の体験に拠らない情報をいくら手に入れても、余計に違う方向へ遠ざかってゆくだけで。近づいていると勘違い。

しかしそうして割り切ってしまうのもまた、わからないものはとりあえず脇に置いとこうと放置するだけのことやもしれず。

宗教はこういう時ほんとに強いと思う。どうにも自分の中だけじゃ片付け切れない悩みにぶつかった時、下手するとあっさりそっちに行ってしまいそうになる。信じなければ怖くなる。自分をその中に放り込んで心の支えとして、生きていくことの不安を預かっていてほしくなる。その物語のデメリットを引き受ける覚悟の根拠は、多くの人がそうしているから、神様がいるから。

けれどもやっぱりそうは出来ず。自分で考えなきゃならんのだ。他人の物語の中に自ら取り込まれてゆくのは真っ平御免なはずなのだ。一足飛びに安心できる場所へ行こうなどとは虫の良過ぎる話。

さりとて、答えなど一向出そうも無い頭の中だけに湧いた悩みでうんうん唸ってばかりで、今日動けないなんてのも馬鹿馬鹿しい話。信仰して楽になって仕事に快く取り組めればそれはなによりではないか。学生の時分とは違うのだから。

いやいや。そうして何か忘れてゆくのではないか。傍らに流れてるものに目を瞑り続けていると、いつしかその流れが合流してきたときに混乱してしまう。とりあえず自分の流れを作っておかねば。

死に関する実体験。なにかあるかしら。道路で、車に轢かれた猫やら狸やら蛇やらの死体は近所で毎年見かける。何度か猫埋めた。ぐちゃぐちゃになって流れ出た体液がアスファルトにこびりついていたり、体にぽっかり空いた傷口に無数の蛆が湧いていたりしていた猫達。ちょっと蛆はきつかった。ご飯食べられなくなるんじゃないかと思った。蛇の死体はトンビが持ってった。

今ではみんな土に還っているはず。埋めた後にはそこだけ草が濃かったこともある。気のせいかもだけど。いくらひどい死体になっても、人もそうして還るのだと思へばなんだか気楽になる。でも人とどーぶつとはやっぱり違うので、何かしら更に気を休めるためのものが要る。

田舎では隣近所の人間関係がまだ多少は濃い。誰それが病気だの死んだのという情報もあっという間に広がる。救急車呼びづらいぜ。おばあちゃんが入院してるのを隠してみたり。いろいろ煩わしいこともあるのだけれど、地域の社会の中でその一員としての人の死が生きている人たちによって語られていくうちにそのダメージが紛れることもある。

孤独死はそれが無いのが怖いのかも。隣で起こった人の死が紛らわされない。その人が死んだ後も日々続いていく周囲の人の生活に溶け込んで薄まっていくのではなく、周囲の人々の生活から切り離されて忘れられるだけ…のような気がするけどどうなんだろ。

と言っても、この前うちからそう遠くない所で孤独死があったのだった。田舎なのに。あれからほとんどすぐにそのお宅は取り壊され、今は砂利の敷かれた平地になっている。いかにも、と言ってはなんだけど、以前から人の気配の無いちょっと気味悪い家だなと思ってた。近所づきあいも無かったまるっきりの他人だからかもだけど、なんだか何もなかったことにされてしまったみたいな気がした。

えーと、どうまとめればいいんだろう。一人の頭の中だけで死についてなにか答えを出そうとするから変に悩んじゃうんでしょうねぇ。どこどこの誰それは変な死に方しちまったみてぇだじ、ほぅそうかぃ、そりゃせつねぇね、なんて風に、実際近所で人が亡くなったら生きてる人々の日々の話と生活の中で自然とそういう悩みは解消されてきたのでせう。答えを何か一つに決めてかかることもない。

そうなると村社会みたいな共同体を再生させねばならんね、という話になりそうだけど、それがまたどうしても鬱陶しいところがあって、頼むから独りにしてくれなんて願うようにならんこともない。

何が言いたいのだ。実際に身内の死がやってきてからでないと何かわかることはないのかも。


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ざれごと

上の話題とは関係ないけれど、子供の頃に学校の勉強が嫌いだったのは、頑張ってそれをやっても何かを作ったり表現したりすることにつながっていなかったからなのかなと思います。絵の描き方を習うのなら、その先に自分の描きたい絵を表現豊かに描けるようになるという目的と欲求がはっきりしてるけれど、数学はそれを学んだ先に何ができるのかさっぱり想像できなかった。

作ることや表現することに学校の勉強をもっと直結させて欲しかったなぁ。勉強の先は「テスト」だとしか思えないからやりがいが無い。「問題を解く」のが気持ちいいと思えることもあるのだろうけど、ほとんど無かった。点数が良ければ何やかや言われなくて済む、という消極的な姿勢だった。なんか黙々と義務を果たしてる感じ。

「いつか何かの役に立つ」というより、何か自分が今やりたいことをやるためにはこれが必要なんだ、と「自然と納得できる」ような勉強だったらよかったのにと思います。カブト虫を捕りたいと思ったら、どんな木にいるのか、何を食べるのか、道具は何が必要か、どうやって作るか、そういうのはすごく自然に知ろうとしたし体が動いてた。そんな風に。


国語であれこれ文法を教わってもそれがどういう風に役に立つのか、目的にうまくつながらなかった。勉強の成果が出るべき読書感想文は授業と切り離して捉えてたから学んだことなど使いようも無く。正しい文法やら言葉遣いやら、お話の主題とか登場人物の気持ちを○○字以内で書きなさいなんて問題とか文章の要約など、それらの必要性が実感としてわかってくるのは大人になってからようやくでした。

実際の問題に突き当たったときやっと、学びたいと思う。勉強しときゃよかったなぁ、なんて思う。でもそれを個人の怠慢と言うにはちょっとひどいんじゃないかと思います。別に小学生の時にだってそういう実際の生活での問題は経験できるのに、学校の授業ではわざわざ小難しくして教えるものだから、子供が勉強を嫌いになってしまう。紙の上で大人がひねくり回した文章問題なんかを解かせるのはいかんのじゃないかと思います。

ややこしい文章問題なんか解かせるより、実際に買い物に行かせて、何を何個買うにはいくらのお金が必要か、硬貨と紙幣が混ざってたらどんな組み合わせで払えばいいのか、というのを体験した方がずっとわかりやすいのに。目的とうまく結びつかない手段をとにかく覚えさせようというのは子供がかわいそうだと思う。

好きなことばかりさせてたら嫌いなものがずっと嫌いなままになってしまうでしょうか。そんなことはないと思うのですが。なぜ嫌いな科目が出来てしまうのかというところを考えて欲しい。先生だけじゃなくて、親も。嫌なものを押し付けられれば普通はもっと嫌いになるでしょうに。子供に責はほとんどないんじゃないかなぁ。

そりゃ、何をするにしても楽しい、面白いことばかりじゃないけれど、なんていうかこう、やってみたい、手触りのある目的のために必要なものがあるなら苦とも思わずできることも多いだろうに。特に、若いうちは。

受験に合格することが目的だ、とは言えるのでしょうけど、僕はその目的に向けて努力するというのがどうしてもできなかったです。目的と手段が結びつかないような空しさ。

明日学校で当てられても困らないように予習しなきゃ、怒られないように宿題しなくちゃ。なんか過剰にびくびくしながら過ごしてたように思います。個人の性格に拠るところが大きいのでしょうけど、誰でも多かれ少なかれそういうところありますよね。

なんだかそれがもったいないなぁ。と、今なら思えます。自分からなにか学びたいと思って行けてたら、きっと教わること沢山あって楽しかっただろうに。勉強しなきゃ怒られるとか恥ずかしいとか、そういうのを回避するために勉強するのじゃなくて。

僕は当時は、特に高校生の頃はいろいろな問題の回避が最大の目的だったから、学校をやめるということに非常に期待してたのだと思います。だから大学行った時にひどく潰れてしまったんだろう。まさか自分がニートのひきこもりになるとは思ってなかった。今もまだひきずってるところはあるけれど、今ならやっと、当時の自分を以前より冷静に省みられそう。時間かかったなぁ…。現在は一応仕事してるのでご安心を|ω・)

なんというか、まだ心の隅でしょんぼりしてるあの頃の自分は、いずれ僕が自分で慰めて励まして外に連れ出してあげねばならね、と思います。死ぬとか言っててはいけねぃよ。泣くな。
なんか話が全然違う方向にきちゃったけれど、まぁ、まぁ。
よし、寝よう。


|д、)ノシであー

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